『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』 島本理生
お店や家で一緒に料理を食べるなど、デートを重ねる男性がいる。彼はHIV感染者だった。彼は何処までの丁寧に誠実に向き合ってくれる。ただ、友達や家族は「彼じゃなくても」「他にもいる」という言葉を浴びせてくる。いろいろな場所で、いろいろな食事をともにしながら、お互いの問題に2人で話し合い向き合っていく、ゆったりとした大人の恋愛物語。彼女の強い思いと深い愛情、彼へ向き合う姿勢を前に、周りの人も影響を受け、少しずつ変化が生まれる。
気付かれていたんだ、と恥ずかしくなりながらも、いっぺんに力が抜けてソファーにもたれた。
気遣いは優しさを測るひとつの指針になりそう
気付いてくれる、たったそれだけ、でも難しいこのことで安心感と嬉しさを感じる。相手が「気づいてくれた」と私が気づけたときの嬉しさにはぬくもりを感じた。誰もが自分が一番可愛くて、自分に一番興味がある中で、目を向けてくれる、気にかけてくれるって究極の優しさのように思う。
体調がすぐれず何も食べずにゆっくりしていたとき声をかけてくれた人がいたことは、今思い出しても温かい優しさに触れたいい思い出。私は体調不良なんて言葉にせずただただ休んでいただけ。「ご飯食べないの?」に始まり、しばらくしたら「余ったけどたべる?」って。その時も今も、余ったわけではないことは知っている。それも気遣いだと思って、ありがたくいただいた。体調不良の人にあげるにしては濃厚な味だったけど、気を遣ってくれたことが嬉しかったし、その気持ちが美味しさに変わった。もらった後も、食べている時も、「温める?」とか「(量)足りる?」とか何かと気にしてくれた。
「なに一つ特別じゃない私の話をいつまでも飽きずに聞いてくれて、真剣に心配したり、絶対に傷つける言葉を使わずにアドバイスをくれたり。旅行すれば、楽しくて、なにを食べても二人一緒なら美味しい。初めてだったよ。そんな人」
なんてことない日常に目を向ける
ココをピックアップできるようになった今の私を、私は好きだと思う。字面は何気ないものかもしれないが、実際は希少だと思う。多くはいない。日常生活を通じて痛感。ゼロではないが少なかった。でも、経験はある。なんでもない、オチもない、なんでもない日常の話を「聞きたい」とまで言って話をさせてくれる人がいた。表情が見えない電話は苦手なはずなのに、その人との電話は何時間でもできた。むしろ心地よかった。何話しても聞いてくれて、それに乗っかって話広げてくれるから、話題なんてないのに話が尽きない。私はその渦中にいるときには気づけなかった。この時間や場所を手放したことは一生の後悔。なんてことない時間が楽しいと思えること、一緒に食べるご飯が美味しいと思うこと、それが幸せな日常生活なのだろうと思う。まずは「足るを知る」に目を向けていきたい。
ゆるぎなく、無理もなく、満たされて、だけど私たちは確実にいつか死んでいく。それを自然と想像できるくらいに幸福だと気付き、希望とはなにか足りないときに抱くものなのだと悟った。
幸せに気づく瞬間
将来の姿が見えたと言うとき、多くの人はポジティブな将来を見ている。ならば、未来が見えたその瞬間、その人は幸せの中にいるのかもしれない。「幸せの絶頂で死にたい」と書かれた小説があった。何となくわかる。「終わりよければすべて良し」ではないけれど、一番幸せの状態で死ぬことができれば、後悔や悲しさ、苦しさに気づくことないのではないかと思う。
本当の最期である「死」すらも自然と感じられる人と出会うこと、そして、今出会っている人とそう感じられることを期待する。
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