『傲慢と善良』 辻村深月
言いつけを守り周りと同じでありつつ、特別でありたい自分らしさの共鳴
マッチングアプリで出会う架と真実。結婚式も予約し、架を支えるため現職を辞めた次の日真実は姿を消した。真実からストーカーの話を聞いていた架は警察に相談するものの、事件性は低いから捜査は行わないという。真実のことを何も知らないと痛感した架は、真実を探す。居場所を探しながら、真実が30近くまで暮らしてきた故郷群馬で自分と出会う前の真実を聞いていく。架が過信して知っていると思っていた”真実”は、そこにはいなかった。
傲慢さと善良さが、矛盾なく同じ人の中に存在してしまう、不思議な時代なのだと思います
ひかれたレールは安心で比較され続けるリスクがあり、みんなと一緒のレールの中でいかに自分が特別かを見せる場所
傲慢とは、他人を侮り、思い上がった態度をとること。prideと訳され、キリスト教では七つの大罪の一つである。「慢」として、仏教では煩悩の悪見の一つとされ、儒教では疎まれる概念とされている。対義語は謙虚、謙遜。一方で、善良とは、性質(=もって生まれた気質、ひととなり)のよいこと、性質がおだやかですなおなこと。対義語は不良、悪。本書では、自分の価値観に重きを置きすぎていることを傲慢、言いつけを守り誰かに決めてもらうことを善良としている。一見矛盾したこの両者が、ある個人の中で成立しているという。決められないのに嫌だと思う。自分からは選ばないが選ばれたいと願う。一文に逆説が入っているからこその際立ちがある。皆と一緒がいいと行動するものの、心の奥底で自分は特別な存在と思い込む。間違いだとは思わない。自分が一番で特別で可愛くて問題ないし、ありきたりでありたい。だけど、それが傲慢さの一面であることは頭に置いておく。私の中にある「慢」の存在を認めていれば、出すことも隠すことも私の意思でできる。
ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です
自分には甘く高く、他人には厳しく低く
婚活、結婚について書かれた本書だが、自分の値段という意味では、仕事や生活水準、交流関係なども当てはまると思う。なんとなくピントこない。気持ちがのらない。そう思ったことはたくさんあったけどしっくりくる答えを見つけることはできなかった。「なんで?」と聞かれて、「どうして?」と自問して、なんとか言葉にしてきたけれど、その場にある一般論にあてはめただけだったかもしれない。考えているようでフリだったのかもしれないと思わせるほど、しっくりくる答えに出会った。私が私につけている値段が、私が顕在意識で認識しているよりも高いから、つまり相手以上の値段を自分につけているから「ピンとこない」。正直、心が痛い。マッチングアプリで「いいねがきた人があなたのレベル」らしい。マッチングアプリをしたことがある。事前のメッセージなし、つまりいいねなしでアプリで会う人を決めてくれるものも利用した。どのアプリでもピンときたことなんてなかった。メッセージはいいね来た人の1割くらいで、実際に会ったのはメッセージした2割くらいかなと、体感そんな程度。ハッとさせられて、時間差で心にグサリとくる。相手を「断る」場面に出くわすたび、じんわりと痛感させられる。婚活スタートの人におすすめと言われているのも納得。
あら?やだ。今の若い人だぢって、自分が恋愛してっかどうかも人に言われなぎゃわがんねぇの?
それすらもわからないほど、自分ときちんと向き合ってこなかったのかも
印字された言葉なのに、頭の中にぼやけた音声が流れるような体感だった。ハッとさせられた。東北に住むおばあちゃんの台詞。お見合い結婚がまだ主流の時代に結婚適齢期だったであろうおばあちゃんに言われるとグサリと鋭く優しい痛みが走る。方言を話すおばあちゃんだからこ重みが増す。私は恋をしにくい人だと思っている。それもどこか間違っていたのかもしれない。「恋」というものを高く意味づけし、神秘的なものだと思いたかったのかもしれない。会いたい、知りたい、話したい、笑ってほしい、それらが叶えば嬉しい。それでいいのであれば経験はある。過ぎたからわかる。今、その瞬間に「恋している」とは気づけていない。気づける人は純粋にすごいと思う。自分にも相手にも、そして恋にもきちんと向き合っている人なのだと思う。
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