『Blue』 川野芽生
人魚姫の選択と多様性が謳われる人間の選択のリンク
人魚姫をモデルにしたオリジナル脚本のひとりの“姫”を演じた真砂(まさご)。高校の演劇部で「女の子」として舞台にあがる真砂は、「男」として生まれてきた通称トランスジェンダー。ホルモン治療、性同一性障害の診断と性別適合手術、戸籍上の性別変更を計画し、時間とお金の将来設計を話す。コロナ禍の自粛生活で部活動がままならなかった後輩たちのために再開した真砂は別人になっていた。姓に関わる生きづらさと何にも当てはまらない空虚さを無遠慮に、そして直に感じてきた真砂が悩んだ末に選んだ生き方を、人魚姫が迫られた選択とリンクさせながら描く。オリジナル人魚姫の演劇に携わる人には、性別にとらわれない子、自分の性に違和感を覚える子、性的な話に嫌悪感を抱く子など、各々が特に互いに対して無遠慮に自分の意見をぶつける。真砂を主点に、性をキーワードに演劇部の子たちのセリフによって多種多様な視点で語られる。
『すべての男の頭はキリスト、女の頭は男』という箇所が聖書にあって、(略)女は男を介して神に接するというんだよ。
女は女一人では届かないのか?
日本の結婚文化に似ているところがあると思う。見直されており例外もあるが、結婚は個人間ではなく家同士のつながりになる。女性が男性家に入るという表現がある。もっと時代を遡ると、平安時代男性は、昼は職務を全うし夜は意中の女性の部屋へと足を運ぶというようによく動くイメージがある。一方で高貴な女性ほどあまり動かず、表には出なかったという。彼女の顔を知るものは限られていたともいう。そして女性の身分を高めるには父である男の職務、地位が重要であったと古典文学に残されている。キリスト教でない日本でも文化として存在する。また、男女平等、個人主義など変容をとげる現代にも、「女は男を介して」が垣間見れる瞬間はまだ残っているように感じる。仕事をして、子どもを育てて、すべてを女一人でできる人がいても、生活を満喫していても、同じなのだろうか。
人魚が人魚のままで生きていける場所があったとして どうだったんだろう
他の選択肢があったとして、人魚姫は、作者は、読者はなにを選び、何をハッピーエンド/バッドエンドとしたのだろうか
王子と結ばれたいと願った人魚は、声と引き換えに人間の体、脚を手に入れる。もしも人魚が人魚の姿のまま王子と結ばれる選択肢もあったとして、人魚はどうしたのだろう。そして自由に選べたとして、何かを手に入れるための代償も必要でなかったとして、人魚はどうしたのだろう。私が人魚だったら、ありのままの姿で王子の前に出ることはできないと思う。人魚が人魚のままで生きれる場所が人魚だけの世界であったら人魚のまま生きるが、王子と一緒にいる世界を望んだとき、王子と同じ生き物として隣に立ちたいと願う。王子を驚かせないように、王子により近づくために、何より王子に嫌われないために。人魚姫の物語の作者は、日本語への翻訳者は、人魚姫が人魚姫のまま生きていける場所があったとして、人魚姫の生き方をどのように描いたのだろうか。どのように願ったのだろうか。
恋人とか友人とか、関係に名前をつけるのは僕の性には合わない。人は全員違うし、人と人との関係もひとつひとつ全部違うから。でも名前をつけないと見えなくなるものもあるんだろう。
多様性の理想と現実を突きつけられる
多様性の理想と現実がこの3文に詰め込まれていると思う。人も関係もひとつひとつ違う、だから名前の付けられた型にはめずに接する。名前をつけたがらない人もいる。一方で名前を欲しがる人もいる。安心や自由、怖さ、縛りがある。良さの裏には悪さがある。思考の自由が尊重されるべきならばそれぞれの関係の名前をもつのももたないのも、1人で決められるといいと思ってしまう。個人の尊重の理想形。誰もがこの3文と同じ考え方ができれば、人魚も真砂も、どんなセクシュアリティを持つ人も、自分が自分であるがゆえに引き起こされる苦しみや恐怖は幾分か減るのだろうか。
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