『愛じゃないならこれは何』 斜線堂有紀
私のファンを追いかけるアイドル、ビジネスパートナーの理想で居続けたデザイナー、大好きな人と一緒にいるために別の子に告白する男の子と3人関係を続けるために承諾する女の子、ライバルに勝つために古参ファンに接触する仲間。好き=愛とは少し違う。でも、「愛じゃないならこれは何」なのかわからないくらい、深い熱がある。たとえそれが正規の方向でなくても、確かに存在する。
自分はずっとガラスの靴を脱がなかった。だから、灰被りの幸せを得られなった。
ガラスという履かされた靴を脱ぎ捨てる勇気
ガラスの靴はプリンセスや姫の象徴で、多くの女の子の夢でもあると思う。私のプリンセスのイメージは、可愛い、華やか、わがままだけど許される、かよわくみえて実は強い。ガラスの靴は”動けなくさせる”ために履かせるという話を聞いたことがある。庇護の対象とさせること、またそうあり続けることがプリンセスの役割だと捉えた。
情景の対象にはなるが、日常生活は難しいだろう。私も「ガラスの靴を脱げ」ではないが、一段下がるように言われたことがある。「イイ人」ではあるが、「あなた自身」が見えない。どう思ってるか、何を考えているか、もっと言えば楽しんでもらえているかが、わからないと。だから、あなたは一段、二段降りる必要がある。好かれることに頑張り相手の期待に応えようと、繕った結果がこれだった。だから私は、ピーチ姫を目指すことにした。
覚悟のある人間とあれこれ悩んでいる人間の差は反応速度に出る。
覚悟の難しさ
悩みや迷いがいかに判断力や行動力を鈍らせるかを表したように思う。私は良く言えば慎重、マイナスに言うと動くのが遅い。だから意図せず機が熟すのを待てる一方で、幾度もチャンスは逃してきたのだと思う。迷いすぎて逃したことさえ気づいていないこともありそう。
覚悟と言うのは簡単だが、決めるのは難しい。ずっと悩んでいる。悩みの渦中にいるのは疲れるが、安心感もある。実際には何もできていないが「考える」ことをしているため、変えないまましている気分になる。周囲の変化が生命危機に繋がる時代もあったため、人間は変化を嫌うようにできているらしい。「知っている」と「できる」の違い、もしくは、「学ぶ」と「行動する」の違いに匹敵するのだろう。覚悟のハードルはやってみるの怖さ、難しさに同じ類いのものかもしれないと思う。
会話の正解が欲しい、と切実に思った。言葉の一言一言に致命的な失敗が紛れ込んでいる気がして恐ろしかった。
コミュニケーションに正解はない、わかっていても安心という名の正解が欲しい
言葉はあくまで道具でしかない。それを念頭におくようになってから、言葉への恐ろしさを痛感し、正解を求めるようになった気がする。道具は便利な一方凶器にもなり得るから。相手の様子を伺い、変化を読み取れば注意力を高める。コミュニケーションに正解なんてない。それが現実。いくら気をつけていたとしても、背負っている背景や育った環境で傷つく言葉も違えば受け取り方だって違う。フィルターを挟めば意図しない変換が起こる可能性だってある。だから怖い。不本意に、意図せず、相手を攻撃していないか不安になる。
愛は落ちたら終わりの崖ではなく、絶えず湧いては足を取る泉だった。
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